三月に入り、街は桃色に染まり始めた。商店街のウィンドウには雛人形が飾られ、和菓子屋には桜餅やひし餅が並ぶ。
そんな中、和菓子店「福々堂」では、店主の孫であるななまるが、大忙しでひな祭りの準備を手伝っていた。
「おじいちゃん、ひし餅の緑ってなんの味?」
店の奥で餅を切っていた祖父が、にこやかに答える。
「それはよもぎの味さ。ひし餅はね、下から緑、白、桃色って三色になってるだろ? 緑は健康、白は清らかさ、桃色は魔除けの意味があるんだよ」
「ふーん……ってことは、緑は野菜みたいなものかぁ」
「まぁ、そうとも言えるかな」
「じゃあ、ひし餅だけで栄養ばっちりじゃん!」
ななまるは得意げに腕を組むが、祖父は笑いながら首を振る。
「お餅ばっかり食べてたら、すぐにコロコロになっちまうぞ」
「うっ……」
ななまるは、つい最近食べ過ぎを指摘されたばかりだったので、それ以上反論できず、そそくさと作業に戻った。
その日の夕方、ななまるは祖父の店の奥にある蔵へ向かった。そこには古い雛人形が飾られていたのだが、なぜか三人官女のうちのひとりだけ、片方の眉毛がないのだ。
「ねえ、おじいちゃん。この三人官女、どうして眉毛が片方だけないの?」
「あぁ、それはな……昔、ひな祭りの夜に起こったある出来事が関係してるんだ」
「ある出来事?」
祖父は一瞬、遠い目をした後、静かに話し始めた。
「それは、わしがまだ子どもだった頃のことじゃ――」
ななまるは思わず息をのんだ。
一体、この雛人形にはどんな秘密が隠されているのだろうか……?
「それは、わしがまだ子どもだった頃のことじゃ――」
祖父は懐かしむように目を細めながら語り始めた。
「その年も、ひな祭りが近づいて、家で雛人形を飾っていたんだ。ところが、祭りの前夜、妙なことが起きたんじゃよ」
「妙なこと?」
ななまるはゴクリと唾をのむ。
「夜中に目を覚ましたら、雛人形の並びが変わっていたんだ。しかも、三人官女のひとりの眉毛が、半分だけ消えていたんじゃ」
「えぇっ⁉ 誰かがイタズラしたんじゃなくて?」
「最初はそう思ったさ。けれど、家族の誰も心当たりがないし、そもそも雛人形を動かすようなことはしていなかった」
祖父の話に、ななまるの背筋がゾクッとした。
「それから数日後、近所のばあさまがこんなことを言ったんだ――『眉なしの官女が、悪い夢を食べてくれたんじゃろう』ってな」
「悪い夢?」
「そうさ。わしの家ではその頃、夜中に奇妙な夢を見てうなされる者が続いていたんだが、その日を境にピタリと止まったんじゃ」
「それって、雛人形が悪夢を吸い取ったってこと⁉」
「そうかもしれん。まるで、官女がわしらを守るために身代わりになってくれたようだったよ」
ななまるは、眉の消えた官女の顔をまじまじと見つめた。
「じゃあ、この人形は……?」
「それからというもの、わしの家ではこの雛人形を特別に大事にしてきたんじゃ。『この官女がいる限り、悪夢に悩まされることはない』とな」
祖父が語り終えた瞬間、ななまるの耳に、ふっと風のような音が聞こえた。
――まるで、官女が微笑んでいるような気がした。
ひな祭り当日。ななまるは店の手伝いを終えたあと、祖父と一緒に特別なひな壇の前に座った。
「今日は、この官女さんに感謝を込めて、お供えをしよう」
祖父がそう言って、小皿に桜餅をのせ、官女の前にそっと置く。
「……ねえ、おじいちゃん。この雛人形って、今も悪い夢を吸い取ってくれるの?」
「どうかな。けれど、昔からこう言われておるよ――ひな人形は、持ち主の厄を引き受けてくれるってな」
ななまるは少し考えた後、こっそりとお願いをした。
(もし本当に厄を引き受けてくれるなら、今年のテスト、いい点が取れますように!)
その夜、ななまるは不思議な夢を見た。
雛人形の並ぶひな壇の前に、ひとりの三人官女が立っていた。彼女は片方の眉毛がないまま、やさしく微笑んでいる。
「おやすみ、ななまる」
その声は、どこか懐かしく、温かかった。
翌朝、目を覚ますと、不思議と体が軽かった。
「うーん……よく寝た!」
朝食を食べながら、祖父が笑って言った。
「今夜はぐっすり眠れたか?」
「うん! なんだか、すごくいい夢を見た気がする!」
「そうか。それはきっと――」
祖父はふっと微笑み、ななまるの頭をやさしくなでた。
雛人形の官女は今日も、ひっそりと見守っている。
ななまるはもう一度、眉なし官女の顔を見て、そっと手を合わせたのだった。
(完)

